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岡崎 郁(おかざき かおる)

岡崎 郁

元プロ野球選手/野球解説者/実業家

プロフィール

大分県大分市出身の元プロ野球選手(内野手、右投左打)・コーチ・二軍監督。

現役時代は、一貫して読売ジャイアンツ(巨人)でプレー。引退後の1996年以降も、野球解説者として活動した時期をはさんで、巨人で二軍打撃コーチ・二軍ヘッド兼内野守備走塁コーチ・一軍ヘッドコーチ・二軍監督・スカウト部長などを務める。

 

経歴

大分商業高校では1979年春夏の甲子園に連続出場。春の選抜ではエースとして起用され、1回戦で作新学院を5-1で降す。しかし2回戦では東洋大姫路に打ち崩され大敗を喫する。夏の選手権では遊撃手に回る。2年生エース松本健(東芝大分)の好投もあって準々決勝に進出するが、横浜商の宮城弘明に抑えられ敗退。同年の全日本高校選抜チームによるハワイ遠征にも選出される。

法政大学への進学を希望していたが、1979年のプロ野球ドラフト会議で巨人から内野手として3位で指名される。その後の交渉で当時の一軍監督だった長嶋茂雄の説得を受けたことから、入団に至る。

入団当初は内野陣に河埜和正、篠塚利夫、中畑清、原辰徳などが揃っていたため、一軍公式戦への出場機会に恵まれなかった。
1984年には、肋膜炎を患って療養生活を送ったため、支配下選手登録を外れて練習生として扱われる。

1985年には、支配下登録選手への復帰を経て一軍に定着。河埜や石渡茂といったベテラン内野手と遊撃手のレギュラーを争い、8月には定位置を獲得する。

1987年には鴻野淳基との熾烈な定位置争いの中、一軍公式戦での通算失策を2にとどめ、守備率.994を記録。遊撃手としてのシーズン守備率のNPB記録(当時)を樹立するなど、レギュラークラスの働きを随所に見せていた。同年の西武との日本シリーズでも3試合に先発、12打数4安打を記録する。翌1988年には主に2番打者として77試合に先発出場。

1989年には、当時の一軍監督・藤田元司に勝負強い打撃を見出されたことを機に、春季キャンプで三塁手や一塁手としての守備を練習。オープン戦で首位打者を獲得すると、開幕戦では一塁手としてスタメンに起用された。さらに原の左翼手へのコンバートに伴い一塁手から三塁手に復帰した中畑が開幕直後に故障。これを機に三塁手のレギュラーに定着する。結果として遊撃手から三塁手へのコンバートに成功した。打撃面でも、親友の駒田徳広とのコンビで6番、7番打者を任されると、「第2のクリーンナップ」として他球団から恐れられるまでに成長。同年は初の規定打席(20位、打率.268)に到達する。

1990年のセ・リーグ優勝に貢献するとともに、オールスターゲームのファン投票でも1989年から4年連続でセ・リーグ三塁手部門の1位になった。1989年の近鉄との日本シリーズでは2本塁打を放ち優秀選手賞を獲得、チームが西武に圧倒された1990年の日本シリーズでも、12打数5安打1本塁打と孤軍奮闘し敢闘賞を受賞した。なお、1990年の日本シリーズで西武野球の強さを目の当たりにした岡崎は「私の野球観が変わった」との言葉を残している。
1991年から選手会長・主将も務める。
1992年まで三塁手のレギュラーの座を維持。
1993年には原が三塁手に復帰した為に控えに回るが、チームが極度の打撃不振に陥り、同年8月11日には、ヤクルトとの対戦で、一軍公式戦ではチーム58代目の4番打者に起用される。

1994年は原の故障もあって三塁手に戻り、6月からは5番打者に定着。規定打席には届かなかったがリーグ優勝に貢献。西武との日本シリーズでは第3戦で2安打、第4戦で3安打を放ちチーム日本一に力を添えた。

1995年以降は、元木大介の成長や仁志敏久の入団などから出場機会が減少。
1996年に現役を引退。

引退後はニッポン放送「ショウアップナイター」解説者(1997年 – 2004年)として活動する傍ら、TBSテレビ『おはようクジラ』(1997年4月 – 1999年3月)→『エクスプレス』水曜日(1999年4月 – 2002年3月)スポーツキャスターをつとめる。

2005年にはヤンキース傘下マイナーリーグ1Aリバードッグス・3Aクリッパーズにコーチ留学し、メジャー流の指導を学んだほか、バート・ミアディッチを直々に視察。

帰国後は古巣・巨人に復帰し、二軍打撃コーチ(2006年 – 2007年)→二軍ヘッド兼内野守備走塁コーチ(2008年)→二軍監督(2009年 – 2010年, 2013年 – 2015年)、ヘッドコーチ(2011年 – 2012年)、編成本部アドバイザー(2016年)、スカウト部長(2017年 – 2019年)を務めた。2010年には第17回IBAFインターコンチネンタルカップ日本代表監督も務める。
2019年12月1日付でジャイアンツアカデミー校長に就任(2021年退任)。

今後、引退したプロ野球選手のセカンドキャリアをサポートするため、人材不足や事業継承を考える企業との橋渡し役をめざした活動を展開する。

●表彰 ゴールデングラブ賞:1回 (1990年)
日本シリーズ敢闘賞:1回 (1990年)
日本シリーズ優秀選手賞:1回 (1989年)
オールスターゲーム出場:4回 (1989年 – 1992年)

 

講演テーマ・タイトル

「プロ野球から学ぶ、折れないモチベーション」
「プロ野球選手育成のプロが語る、人材育成とマネジメント」
「プロ野球選手のセカンドキャリアをデザインする」

あなたの”想い”をカタチにする会社です